昭和五十七年六月二十八日 朝の御理解
御理解 第三十八節 「垢離をとると云ふが身体の垢離をとるよりは心のこりを取って 信心せよ」
合楽でも表行が盛んに行われておった頃は、まず水垢離を取る、というのが序の口でしたね、皆さんの場合。
そういう、垢離を取る、という事は水垢離を取る、といったような意味の事ぢゃないだしょうかね。
そういう水垢離を取る、といったような事よりも、心の垢離を取れと。いわゆる、しこりを取れ、という事でしょうね。
しこりが残る、という事は、も、大体合楽の信心をもってすると、大体残ってはならない筈ですよね。一切神愛と説かれるのですから。けれども、やはりあの人からあん時、あヽ云われた、あヽいう仕打ちを受けた、というのが忘れられん。まあ、それこそ、江戸の仇は長崎で、いつかいつか、この事は云い返してやらにゃならん、と云ったようなね、事を云ったり思ったりする人がありますけれども、合楽で信心頂いておる者は、そういう事がない、と思うけれども、やはりすっきりとしたもの、という事にはならない。ま、あれもおかげ、と、まあ、いうならば、ね。
人が泥棒ぢゃ乞食ぢゃと云うても、というあの御理解がありますがね、私の事をあヽいうふうに云うた、人の前で私はあんなふうに恥ずかしめられたと、ね、これはもう一生忘れられんといったような、そういうものがあっては、やはりおかげが頂きにくいんですね。ね、と云うて、そんな忌まわしい事はもう忘れてしまえ、と言っただけでもいかんのですね。結局、その事がおかげであったと、又、その事がおかげになったと、ね。
あの人こそ神様であった、あの言葉こそ神様のお言葉であったと、いうふうに頂ける時に、しこりが残るどころか、むしろ御礼が言えれるですね、ね。
そこで私は思うんですけれども、本気で神様にお願いをせんならん、本気で水の一つもかからせてもらおう、水垢離でも取らせてもらおうと、言うだけでも、やっぱり一つの決心をしなければん、なかなか出来るものぢゃないですね。
寒中の水はまだいいですけれども、夏の朝のね、あの水垢離はなかなか取れにくいです、かえって。けどもそれが、ま、慣れますとねもう、かからなければ気持ちが悪いようになります。また本当に心身共に何か清々しいなった、そういう心で神様へ向かいますからね、何か御祈念なんかでも有難い御祈念が出来るように思います。
そこで、私は思いますのにね、まあ、私共の、おそらく、あれもおかげ、あれも神の声として、例えば、信心がないなら、ま、恨みを残したり、しこりを残すところでしょうけれども、合楽でおしえを頂いてる人達の場合は、ね、それも神愛として、ま、受ける事が出来るけれども、すっきりしていないならね、私は本気で、これは私共が水垢離を一番初めに始めた時に、ま、一つの決心というものがいります、ね。何でもやはり決心です、ね。心にしこりが残っておるなら、結局、私がまあだ、合楽の信心を本当にわかっていないのだ、と、ね。それでもわからなければいけない。ならば一つ本気でね。 水垢離を取り始めのような心でおかげを頂くと、ね、不思議に心がすっきりする、有難うなってくる、その心が私は神様の心に適うからおかげになると、こう思うです。
やっぱり、自分の心の中にしこりが残っておるといったようなものでも、それをすっきりとするための一つの決心がいるです。あれは松栄会の方だったでしょうか、黄楊会の方だったでしょうか、その会に入って信心の稽古をしょうというには、ま、例えば、あの飛行機からパラシューウトをだいて飛び降りる位な覚悟がなからなけれ ば会員に入られんぞといったような御理解でした。ま、いうならばいよいよ将来は、ね、教会の中心ともなろう、ね、また、本当に御用の柱にもならせてもらおう、と、いう位な願いのもとに、ここでは菊栄会とか、松栄会とか、ね、黄楊会ですか、の、確か黄楊会の方達の発会の時だったでしょうか、そんな事を頂いたんです。
そりゃ、あの、やっぱり飛行機から飛び降りるというのですからね大変な決心はいるですよ、やっぱね。
勿論、パラシューウトを抱いて飛び降りるんだけども、やはり、まいうならば、命がけという感じがします。一生懸命、ね。本気で、 ま、いうなら、その当時の黄楊会の若い青年の方達がです、ね、同じ死ぬなら合楽の庭で散ろ、といったようなね、まあ、いさぎよい心を持ち合わせた者が、同士を作って信心の稽古をしょう。そんなら○○会に私も入らせてくれ、といったような事ぢゃなくて、それは、ね、飛行機からパラシュウート、パラシューウトを抱いてと言われるのですから、もう、間違いなしに、ね、助かる事だけは間違いない。間違いなしに、ま、命にかかわるというような事はないのだけれども、やはり飛び降りるその決心というもの、お互いの決心がね、もう、言わん、黙って治める、と、皆さんが言よるけれどもまた失敗しました、また言うた、こんくれな事は言うたっちゃよかろう、と、なってしもうてね、いつまでたっても徹底した修行ができません。ね。
私は、その決心いかんによって、その修行が成就すると、もう、これは私の信心の命だ、というふうに、いよいよね、それこそ、パラシューウトを抱いて飛行機から飛び降りる位な決心で、ね、飛び降りてみると、それこそフワリフワリと降りて来る事が出来るし、それを貫く事が出来ます。
水垢離をとる、と言うても、やっぱり、段々、水垢離を取らなければ、気持ちが悪いようになりますけれども、今の合楽では、そういう水行とか、表行を全廃しとりますから、水垢離を一番始めに取るくらいな気持ちはなからなければ、その位な決心はしなければ、いつまでも心に、いうならば、しこりが残って、あの事だけは忘れられん、と言ったような事になる。その心が、神の気感に適わんのです。我心(和賀心)の邪魔になるのです。いや、その事に対して御礼が言えれるという道理は、御理念を頂きますと、本当に、あれこそ神の声であったと、いわゆる成行そのものが神の働きなのだから神様の働きであった、と、理屈の上ではわかりますけれども、心がすっきりする、和賀心になる為には、まず、そういう邪魔な、ね、しこりのようなものが、まずは取れなければ、和賀心を目指しても本当の和賀心は生まれてまいりませんね。一つ、水垢離を取るような心持ちで自分の、いわゆる、心の垢離を取らせてもらわなならんね。その心の垢離を取る為には決心しなければ出けん。
はあ、と、こう、頭とうちふって、こげな事は思うまい、忘れようと、こういうようなものぢゃでけん。それがむしろ反対に、その事に御礼が言えれるような心の状態を開く為には、一つの決心がいるね。本気で、例えば、成行をいよいよ尊ぶばせて頂こう。いよいよ黙って治めよう、と、いったような行き方を、自分の信心の信条にする為には、一大決心がなからなければ出来る事ではありません、ね。たとえ、それを黙って治める、と、言う事でも、言うたり言わなかったり、と、いったような事ではね、貫く事が出来ません。
徹する、信心は徹する事だと言われるのですから、ま、皆さんの心の中に、ま、しこりとまではなっとらんにしてもです、ね、やっぱり、それが、何とはなしに残っておるとするならば、やはり、もみほぐさなければなりませにように、ね、心の垢離もやっぱり、ね、それには、本気で一つの修行を貫く、と言う事。その貫く為の、貫かせて頂く為には、どうしても決心をしなければならない。
本気で決心をする。その事が言わんですむ事の喜び、言わんですむ事の有難さ。成程、成行きというものは、こんなにも素晴らしい、それは、そん時には痛い事であるとか、恥ずかしい事を受けるとかと、いったようなふうに感じるけども、も、それこそが、おかげであった。成行を尊ぶ、という事の神意がわかってくるのです、ね。そこから、いうなら、水をかからなければ気持ちが悪いように、ねやはり、その行を貫かなければ、かえって、ね、自分の心が喜びにまたは、それに浸る事が出来ない、という体験を積んでまいりますと、ね、いわゆる、和賀心といわれる、その、和賀心を頂く為には和賀心の、に、なろうとする、その邪魔になる心というものを、まずは取り除かねばならない、その第一として、私は、ね、しこりを心に作ったり感じたりするような事では、和賀心の、いわゆる邪魔になる、と、いうふうに思います。
「 どうぞ 」